【倫理学的に考える】カーボン・オフセットは、許される「贖罪」か?

はじめに:お金で「罪」は、買えるのか?

飛行機で、世界中を飛び回る、ジェットセッター。

彼は、その旅で排出した大量のCO2を、カーボンクレジットを購入することで、全てオフセットしています。

さて、彼の行動は、倫理的に「善い」ことなのでしょうか?

それとも、お金で環境破壊への「贖罪(しょくざい)」を買い、自らのライフスタイルを変える努力から目をそむけている、単なる「偽善」なのでしょうか?

カーボン・オフセットという行為は、その核心に、こうした、簡単には答えの出ない、哲学的な問いを、内包しています。

今回は、倫理学の視点から、この問いを深掘りしてみましょう。

主な論点と、対立する考え方

論点1:動機の問題 – 「何のために」オフセットするのか?

  • 批判的な立場(義務論的視点)

    「CO2を排出するべきではない」という、根本的な道徳的義務から目をそらし、「お金を払えば、排出し続けても良い」という、誤ったメッセージを与えかねない。

    行動の結果(CO2が相殺される)が同じでも、排出を避けるための、内面的な努力を欠いた行為は、道徳的な価値が低い。

  • 擁護的な立場(結果主義的視点)

    動機がどうであれ、結果として、現実世界でCO2削減プロジェクトに資金が流れ、地球全体のCO2が削減されるのであれば、それは「善い」ことである。

    完璧な動機を待つよりも、不純な動機からでも、実際に行動が起きることの方が、重要だ。

論点2:公平性の問題 – 「誰が」オフセットするのか?

  • 批判的な立場(分配的正義の視点)

    カーボン・オフセットは、結局のところ、排出を続ける経済的な余裕のある、豊かな国や、富裕層だけが利用できる「贅沢品」ではないか。

    彼らが、快適なライフスタイルを維持するために、途上国の安価な労働力や土地を利用して、CO2削減を「アウトソース」している、という、新しい形の植民地主義的な構造を、固定化する恐れがある。

  • 擁護的な立場(貢献的正義の視点)

    歴史的に、最も多くのCO2を排出してきた先進国や富裕層が、その責任を果たすため、率先して、途上国の持続可能な発展に資金を還流させる、有効なメカニズムである。

    質の高いプロジェクトは、CO2削減だけでなく、現地の雇用や教育、健康の改善にも貢献しており、グローバルな富の再分配に繋がっている。

論点3:責任の所在の問題 – 「誰の」責任か?

  • 批判的な立場(個人的責任の強調)

    気候変動の責任を、遠い国の誰かの「削減努力」に転嫁するのではなく、まずは、私たち一人ひとりが、自らのライフスタイルを、根本的に見直す責任がある。

    オフセットは、その、痛みを伴うかもしれない自己変革の努力から、安易に逃れるための「抜け道」として、機能してしまう危険性がある。

  • 擁護的な立場(共同的責任の強調)

    気候変動は、個人の努力だけで解決できる問題ではない。